富谷の考古学
富谷市をはじめとした黒川地方にいつごろか人間が生活するようになったかは、正確には分かっていません。しかし、黒川郡各地で発見された古代先住民が使用したものと思われる土器、石器等から判断すると、この地方で縄文文化が始まったのは約3,000年から約12,000年の昔にさかのぼるものと推測されています。富谷市では、寺前下遺跡から縄文時代後期のイノシシ形土製品が見つかり展示してある他、考古学の発掘調査によって、判明した土器などを常時展示しています。
富谷の中・近世
黒川郡は久しく蝦夷の境にあり、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かった際も黒川郡を通過し、平安時代頃から中央の支配を受けていたことを知ることができます。
鎌倉時代に入ると東北地方は、源頼朝の勢力化に属し、名実ともに中央集権の支配下に入りました。
その後、黒川氏が黒川地方を領土にすると、文明年間頃(1469~87年)から大名化し、黒川晴氏が滅びるまで9代百数十年の間、富谷市内をはじめ、黒川郡内各地に城館を築いて割拠しました。
やがて、豊臣秀吉が天下統一を達成すると、伊達政宗は天正19年(1591年)、奥州の一揆を平定後、新領地替えにより、黒川・宮城・名取・柴田・伊具・亘理・宇田・志田松山分・桃生・深谷・葛西・大崎の12郡を拝領します。
そして、1600年代に入ると仙台の城下町を造営すると、奥州街道の工事に着手し、1618年富谷宿建築を命じ、1620年に富谷宿が宿立ちし、繁栄を極めました。
黒川氏時代の館跡の発掘によって分かった資料の他、宿場町に関連した資料を展示しています。
富谷の近・現代
明治5年(1872年)仙台県は初めて宮城県と改称、塩谷良翰が宮城県参事に任ぜられました。そして明治9年(1876年)8月21日、当時の1区16郡から当時10市15群を官轄区域とする宮城県となりました。この間、明治元年から同9年に至る期間の行政区画の変遷には、めまぐるしい変化がありましたが黒川郡は、仙台に近く県の中央部に位置していたため、終始仙台県、宮城県の管轄に属してきました。
館内では、明治6年に誕生した旧富谷小学校と旧西成田小学校をはじめとした資料を展示してある他、「富谷の産業」「富谷市の歩み」「昭和の茶の間」などを展示しています。